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 名は、紅百合という、別に自分で望んだ名前ではないけれど、生まれる前から定められてしまっているものへけちをつけるのも野暮だろう。

 抱き寄せられる腕に抗わず身を寄せると、頬を寄せた上着から深い麝香のにおいと長く紫煙にさらされた渋みが立ち上る、鼓膜を叩く低音は脳髄をあやすように揺する魅惑の音色、そんな声でこの旦那様から、心配するなと言われたら、頷く以外に選択肢がない。

 でも妾は恐ろしくって、ついさっき寝室の窓越しに目が合った化け物のことをまた話してしまう、この屋敷の人間じゃなかったからあれはきっと怪物なんだわ、ひとの形をしていたけど、ぎらぎら光る目が常軌を逸していて気が遠くなるかと、あの時に旦那様がやって来てくださらなかったらどうしてたでしょう、そっと顔を上げるとじっと注がれる視線を受け止める、やさしい満月に似た黄金の双眸に安心してなんだか視界が潤む、涙は心の自浄作用って本当ね、泣いていると段々気持ちがよくなって恍惚としてしまうから、咎められぬのをいいことに頼もしい背中へ両手を回して存分に甘えた。

 きっときっと、ここにいる子供たちも、妾のことも、旦那様が守ってくださいね、しっかり請け負ってくださるのを確かめてからほんの少し、憂鬱になる、贅沢な憂鬱だ、だって妾、ほんとうはどんな怪異がやってきても、本心ではちっとも怖くない、妾は紅百合、前の旦那も、その前の恋人も、数え切れないひとを手にかけて誰にも取られぬ場所へ隠して糧にしてしまった鬼ですもの、袖で隠した唇の奥に並ぶ牙の鋭さには、初めて口吸いした時に気づくでしょう、隠しごとは蜜の味、頬張るごとに欲が出る、鬼女を抱いていると知ってか知らずか、規則正しい旦那様の心音は今にも頬張ってしまいたいほど甘美だった。