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一行小説

行八十

 夫の臨終に際して手を握ったのは最後の妻、数えて六人目の伴侶だった、彼らの出会いは六十年前、まだ少年と少女だった頃から続く長い縁で、やがて画家を志す少年を傍らで支えた少女は、産まれてからずっと、十年ごとに新しく芽生えた人格が交代する特殊な体質と聞いている。【交代】

 彼が泣き始めてから一週間が経過し、溢れた涙は遂に足首へ届く量にまでなった、生憎と面識のない俺では悲しみを癒せそうにない、すべり台にのぼって塩辛い空気を吸って、どうしたものかと溜息をつく。【号泣】

 若い男女が夜の浜辺で駆けている、先を行くのは女性で、男性が笑いながら追いかけていた、尋常でなかったのは男の手に出刃包丁が握られており、無表情の女の手元には手榴弾がお守りのように輝いていたことだ。【恋仲】

 初めは軽い気持ちだった、二人目の私が意識へ浮上した時は嫌なことを肩代わりしてもらえると喜んだ、事実あの子は面倒ごとを全部片付けてくれてその間の不愉快な記憶は一切無い、その内に任せてしまう部分が増えていく、比例して本物の私が意識へ浮上する時間が短くなっていく、それなら今、私の名前を使って生活しているこの子は一体、誰なのか、などと。【代理】

 車の窓越しに、運転手も助手席や後部座席に座っている人もバスの乗客も、全員顔をこちらに向け凝視したまま通り過ぎていく。【凝視】

 毎朝の決まりごととして今日もまたまつ毛を三本抜く、長さの揃ったそれを指の腹へ並べて、ふ、と息をかけてやると、たんぽぽの綿毛のように回りながらやがて黒い釘となり足元へ落ちてくる、これを仏壇へ供えるのだが、ただひとつ、これに何の意味があるのか、けして、けして、誰かに尋ねてはならない。【慣習】

 ただの古物商に過ぎない男は不相応にも危機に瀕したこの世を救うため暗躍を続けている、なぜそのような心得違いをするのかと問われて彼は平然と答えた、自分の商いは安全な世界でこそ成り立つものだ、ゆえに世の中がどれほど歪に軋もうと平和を保って貰わなくては困る、全ては自らの商売を成り立たせるためだと、慣れた手つきで拳銃へ弾をこめながら語った。【建前】

 瞳と同じ色の涙が出るようになった両目をこすった、手を濡らす真っ黒な水滴をハンカチで拭う度に、翡翠のように透き通った目をしたあの人と過ごした穏やかな初夏を思い出してしまう、もう、五十年も前になるのに。【後悔】

 見開いた両目をめがけて星屑がふたつ落っこちてきた、骨を残らず震わす衝撃とともにあたかも涙のように光が溢れて、自分のまなこの裏に宇宙が広がるのを感じる、そこで得心した、ああそうか、大空も深海も、この命の中にあるのだと。【星拾】

 産まれた日の夢を見た男の話をしよう、展開される場面は一瞬たりとも途切れずに続き赤子から少年へ、少年から青年へ人生の道筋が続いていく、途中からこれが夢なのか、実はこちらが現実だったのかわからなくなりつつあったらしい、そして年老いた果てに迎えた臨終の瞬間、大きく吸い込んだ息と共に飛び起きる、時計を確かめると、最初に男が眠り始めてから数分も経っていなかったという。【夜夢】