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一行小説

行九十

 鳥になった男の話をしよう、ある日目が覚めたら自宅のベッドの上ではなく木の枝を集めた巣の中だった、鳥に関する知識が豊富ではなかったので自分がなんの鳥なのかもわからず、本能的に木の上から飛び立つと、それから彼はずっと探している、毎日当たり前のように帰っていた本当の自分の家を、そこにもしこれまでと同じように『彼』が暮らしていたら、それは一体誰なのだろう?【渡鳥】

 体重計から足の裏が離れなくなったご婦人の話をしましょう、その方は毎朝の体重測定を習慣となさっていました、片足を乗せた段階で鳴り響いた電話のコールへ応じるため足を踏み出そうとしたところ、体重計に預けた右足の裏とプラスチックの素材がぴったりくっついて離れなくなってしまった、友人は片方の足だけで済んでよかったじゃないかと慰め、夫はこんな珍事が起こるのはお前が特別だからと励ませど、どちらの言葉にも彼女は微笑まなかったそうです。【片方】

 在りし日の姿を半分だけ蘇らせる懐中電灯の話をしよう、枯れた花へ向けると映し出される影だけが瑞々しく咲いていた大輪に変わり、貞淑な老婦人へ向けると青春時代のパーティーに袖を通したラベンダー色のドレス姿になる、不思議な光を使って無邪気に遊び回っていた少年は夕食の支度をしている母親の顔へ照射した、すると母の顔だけがポチになったのだ、悲鳴をあげて家を飛び出すと犬小屋から物音がする、反射的に懐中電灯を向けポチの顔が輝くと、たちまち母の顔と瓜二つな人面犬になった。【半分】

 玄関に蛇が出たという悲鳴を聞いて駆けつけると、想定した家人はそこに居らず、床を這う蛇がうねりながら自ら甲高い声で、蛇が出た蛇が出たと繰り返し叫んでいる。【申告】

 たどり着いた寝室の扉を開けると待ち構えていた女が香水瓶を向けてきた、引き金を引く決然に似て噴霧された香りは夏祭りの綿菓子、鈴なりに実ったさくらんぼ、気まぐれな飼い猫のにおいを絶妙に混ぜたような香りで、恐らく夢に匂いがあったらそんな具合であろう。【香水】

 全ての人間から疎まれている、お前が通ったあとの道にはどんな雑草もはえない、数多の強烈な自己嫌悪を抱えて生きてきたある日、そう囁く声が自分のものでないと気づいて両耳の後ろを探る、すると親指ほどの大きさの悪魔が二匹、まるでイヤリングのように掌へ転がり現れたのだった。【暗示】

 書斎へ置いてある机が必ず傾いて見える、奇妙なのはその時々によって傾斜している向きも角度も違うという点であり、問題はどうやら己の方にあるようだ。【傾斜】

 出先で必ず石を拾って帰ってくる癖はいつから出ていたのか覚えていないが、部屋を丸々ひとつ埋めてしまう箱の中身が全て道端の石だと自覚した途端にかたかたと一斉に音を立て始めた、ただの石ころだと思いこんで俺は何を拾い集めてきてしまったのだろう。【路傍】

 自分だけが知る自己流のまったく新しい言語を開発した、これを用いれば日記帳へ鍵をかける必要もないし盗聴器を恐れず独り言を本音で漏らせると思っていたのに、なぜ『こんにちは』と口ずさんだ街中でそこへいる全ての人が確信をもってこちらを振り返り、のみならず完璧な発音で挨拶を返してきたのか。【翻訳】

 家を訪ねてきた大きな熊が、両手へ掬った蜂蜜をおもむろに差し出してきたが、手土産を持った誰かが訪れる用件など引っ越しの挨拶くらいしか思い当たらないため暫し途方に暮れる。【大熊】