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朧兎

 千の桜が連なる並木道、その外れは小高い丘に繋がっていて晴れた夜には月がよく見える、そこには生まれ故郷を思って空を見上げる朧兎が住み着いているという。

 朧兎がなぜ地上へ降りてきたのかを知る者はとうにいない、その昔、大層仲の良かった神主には話していたらしいが、長い歴史の中で血筋も絶えて久しく、廃れて自然の中で眠るかつての社の場所を知るのも、この兎しかいない、もう他に覚えているものがいない。

 時の流れはよく残酷だと嘆かれる、それは時間の経過とともに人は忘れゆく生き物であるのを間接的に憂えている、満開の桜から一枚の花弁が落ちたとても全体像は変わるまいが、常に同じ数が減り続ければ、いずれすべて無くなるのは必定、人間の物忘れは花の散るのに似ていると月の兎は笑う、ちょうど季節が巡ると再び咲くように、記憶も思いがけず蘇ることがあるからだ。

 月に住んでいた頃、多くの人々がこちらを見上げている視線を常に感じていた、しかし自分の立っている場所を仰ぐことはできない、ここはよそからどう見えるのか、そんな好奇心で朧兎は地上へ降りてきた。

 宝物は手の届かない場所にあるから美しい、そう言ったのは誰だっただろう、長生きをしたぶん色々な人に会ってきたから定かではない、ひょっとすると全員似たようなことを言っていたのかもしれない、誰もが同じ真理を違う言葉で語っているだけなのだ、春の終わりは夏の始まり、兎は体を伸ばし最後の桜の一輪を取って月光にかざした。